yaora(旧moyais)

オンラインショップ、yaoraの運営

弊社では「美しい暮らしの良品 yaora」というオンラインショップを運営しています。 名前の通り、手仕事で作られた器、それも民藝(みんげい)という観点で選んだ器を取り揃えたお店です。 民藝を知らない人も多いと思いますが、バタフライ・スツールで有名なプロダクトデザイナー、柳宗理※1(1915-2011)をご存知の方は多いと思います。民藝はその父である柳宗悦※2(1889-1961)が生みだした言葉で、それまで見向きもされていなかった無名の職人による民衆向けに作られた日用雑器に美を見出し、世の中に知らしめました。そして、それらは日本に伝統的に続く仕事でありながら、西洋化、近代化の波にのまれ、縮小の一途をたどっていましたので、なんとかその仕事を残していこうと世に訴えたのです。 民藝は昭和にブームが起こった後はしばらく忘れられたものとなっていましたが、昨今、BRUTUSやソトコト、暮らしの手帖などのカルチャー、ライフスタイル誌などにも取り上げられ、また注目されています。 ※1 柳宗理:やなぎそうり(むねみち) ※2 柳宗悦:やなぎそうえつ(むねよし)

なぜ手仕事・民藝の器のお店をやっているのか?

日本の文化に関わる仕事がしたい

弊社は、スマートフォン向けのサイト、アプリの企画制作から事業をスタートしました。一方で、もう一つの柱として自社のサービスを上げたいという想いもありました。特に日本の文化に関わることで何かがしたいという想いが。それは遡れば僕が学生時代に学んでいた音楽が西洋音楽であり、気づけばライフスタイルや、興味のあることのほとんどが日本の文化から離れていたことに端を発しています。そこに気づいた時から逆に日本の文化を知りたい、もっと日本を知りたいという想いが芽生えました。作曲専攻でしたので、自分の作る曲に、日本の伝統音楽を取り込めないかと試みたこともありましたが、結局それを形にすることはできず、また卒業後は音楽からも遠ざかってしまっていました。

久野さんとの出会い

日本の文化に関わる仕事を立ち上げたい、という想いはあっても、それは漠然としたもので、具体的に何を、というものは全くありませんでした。しかしたまたま購読したディスカバー・ジャパン(翔泳社)という雑誌に、とても目を引く器が載っていました。モダンでインパクトがあるだけでなく、それが日本の伝統的な焼き物だと知り、驚きました。そして安直に、そうだ、このような器を集めた写真集的なアプリを作ろう!と思い付き、その器を紹介していた鎌倉のもやい工藝というお店のオーナー、久野恵一氏(1947-2015)に会いに行ったのです。

もやい工藝

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鎌倉 もやい工藝

もやい工藝は鎌倉にありますが、賑わう繁華街とは反対側の、市役所のある閑静な住宅街のほうにあります。駅から歩いて15分ほどですが、小高い山を登って行くと、鬱蒼と茂る緑の山の木々の下にひょっこりとトンネルが現れます。佐助トンネルという名称ですが、私はいまだにこのトンネルを抜ける時、別の世界に行くような不思議な気持ちになります。

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佐助トンネル

そのトンネルを越え、少し下ったところにもやい工藝はあります。趣のある木造の一軒家で、石造りの門から入り、石畳を通って入っていくと、縦長の店内に拭き漆が施された木の棚が並び、壺のような大物から、皿や飯碗などの小物まで、美しい器が並んでいます。 また壁には竹細工や染物がかけられています。クーラーはなく、夏は表と裏の扉を開けっ放しにしておき、風の通りだけで暑さを凌いでいます。器は好きでしたので、器を売るお店も多少は行ったことがありましたが、それまで僕が行ったことがあるようなお店とはまた別種の美しさ、佇まいのお店でした。

久野さん

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もやい工藝前オーナー、故・久野恵一氏

もやい工藝のオーナー、久野恵一氏はお会いした時に62歳。白髪で恰幅が良く、にこやかながらも時折鋭い眼光を見せます。話も面白く、冗談を飛ばしながらとにかく良く話します。武蔵野美術大学に通っていて、宮本常一という民俗学者と出会ったことや、学生運動にのめり込んでいたということなど。ちなみに僕が日大芸術学部を出たことを話すと、あそこも結構すごかったんだぞ、と嬉しそうに話していました。そうして2時間近く、ただただ久野さんの話を聞いていました。そして、スマートフォンやタブレット向けのアプリを作りたい、という肝心な僕の話については、面白いかもしれないな、と言いつつも、まだ君のことを良く知らないし、それに勉強してからのほうがよい、毎月ここで勉強会を開いているからそこで勉強することからはじめなさい、ということになりました。

手仕事フォーラム

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「もやい工藝」での勉強会

その勉強会というのはもやい工藝でやっているのですが、手仕事フォーラムという団体が主催をしていました。といっても団体の代表は久野さんで、勉強会でも久野さんが話すのですが。そしていつの間にか僕も手仕事フォーラムのメンバーとなり、会議にも出るようになっていました。メンバーは20代〜60代の男女で、出版系やアパレル勤務、農家に建築家に主婦とほんとに様々。勉強会などに参加しながらだんだんと分かったことですが、久野さんは民藝一筋の方でした。若いころに日本民藝館に出入りをしており、そこで鈴木繁男さんという方と出会いました。その鈴木繁男さんは柳宗悦の書生をしており、物の見方などを柳に厳しく教わった方。そして次世代に民藝を伝える役割をした一人でした。久野さんはその方から多くを学び、また一時は日本民藝館の常任理事を勤めるなどもしていました。

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関門海峡、山口県側のパーキングエリアにて

久野さんは宮本常一氏に習い、日本中を歩き回っていました。1年の3分の2は鎌倉におらず、旅していたのです。窯元に直接出向いて物を選ぶことを信条としており、訪ね歩いていました。そしてその旅に時々フォーラムのメンバーが付き添ったり、またフォーラムでも旅を主催していたので、僕も旅するようになりました。飛行機を使うこともありますが、そう毎度は使えないので夜行バスも使いました。

新宿発で島根までおよそ12時間かけて行ったりと。また、車に何人かで同乗して行くこともあります。すごいのは、60代の久野さんが、現地で物も仕入れて持ち帰るため、九州だろうが車で行ってしまうことです。僕も北は秋田、南は沖縄まで、久野さんと一緒でなければ絶対に行くことはなかったであろう場所を訪れ、色々と物も入手することができました。

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熊本の通潤橋

秘境・小鹿田

旅した中で最も印象深いのは小鹿田(おんた)でした。おそらく僕だけでなく、小鹿田は誰が行っても衝撃を受けるのではなかろうかと思います。

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小鹿田の唐臼(からうす)。水の力で陶土を砕き、20~30日かけて粉にする

大分は日田の山あいにありますが、まるで時代がどこかで止まっているかのようなところです。その山あいに住む人のほとんどが焼き物に従事し、コンビニはおろか、店らしい店もありません。そして唐臼という川の水の流れを利用し、巨大な杵で土を砕くものがあるのですが、その音が一日中鳴り響いているのです。

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小鹿田焼 坂本義孝窯の作業風景

作り手

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坂本浩二さん(左)と柳瀬朝夫さん(右)

浩二さんは僕よりは年上ですが、まだ40代。久野さんは浩二さんと長い付き合いがあり、どんな物を作るべきか、指導をしてきました。特に浩二さんとは友達のような間柄でした。それで小鹿田に行けば飲み食いし、またフォーラムの会があれば、彼らがこちらへ来てくれました。僕にとっても、浩二さんとは他のどの作り手よりも会う機会も多く、また人柄も素晴らしいこともあり、かけがえの無い方です。

moyaisの立ち上げ

勉強会に参加したり、旅についていったりしているうちに、あっという間に3年、4年が経ちました。知れば知るほどにのめりこんでいき、生涯をかけて付き合いたいとまで思うようになっていましたので、当初思っていたように、単に器の写真のアプリを作りたいというような思いは薄れていき、もっと継続的にできることをやりたいと思うようになっていました。WEBマガジンやPinterest的なサービスなども考えましたが、どうにもピンときません。このままではという焦りがつのりましたが、行き着いたのがオンラインショップをやるということです。 久野さんにやらせて欲しいと話に行ったものの、はじめから自社でオンラインショップを立ち上げることを許しませんでした。新たに会社を立ち上げるから、その会社のオンラインショップを任せる、と言うのです。しかし諸事情あり、上手くはいきませんでした。多額の投資と労力を使いながら、いったん撤退せざるを得ない状況になり、久野さんにそれを伝えに行きました。しかし久野さんはいったんの撤退だとしても、許しませんでした。逃げるのと同じだと。今すぐもやい工藝にある商品の写真を撮り、それで店をやれと。そこからまた色々と考え、また話しをして、結局自社仕入れでやることにしました。それがmoyaisです。

moyaisの運営

そんなこんなで、moyaisのほうに社長である僕が力を注ぐなか、知らぬ間にスタッフとの関係は希薄になっていました。ディレクターがやめ、アルバイトがやめ、しばらくしてエンジニアもやめ、とうとう僕一人となってしまいました。自宅から遠く、家賃も高く、一人にしては広すぎる吉祥寺の事務所ににいる意味もないので、川崎の自宅近くに事務所を移転することにしました。いっぽうで、moyaisのほうは少しづつ、売れるようになっていきました。Facebookも3000、4000、5000とフォロワーが増え、投稿すると多くの方が反応を示してくれました。一人で10万円以上もご購入頂く方なども出てきました。それでもまだまだ軌道に乗ったと言える状態にはありません。

久野さんの死

そんなところに、突如として久野さんが亡くなりました。67歳でした。癌が発覚してからあっという間の出来事でしたが、亡くなる前病床に呼び出され、続けるよな、ということだけ念を押されました。恰幅の良く、おしゃべりだった久野さんがやせ細り、一言二言しか声を発することができませんでした。葬儀はいったん身内と数人の知人のみで小さく行われました。その知人のなかの一人は、小鹿田の坂本浩二さんでした。そして久野さんが亡くなって2ヶ月ほどして横浜の中華街のホテルで盛大にお別れ会が開かれ、全国から久野さんに関わった作り手の方も集まりました。

後継ぎ

久野さんが亡くなった後、一人息子がもやい工藝のあとを継ぐことになりました。それまで誰もが知る通信大手でエンジニアをしており、親のあとを継ぐとはまったく思っていなかったところ、よく大きな決断をされたものだと思います。そして、少し落ち着いてから、その息子さんともやい工藝に長く勤める女性と、またフォーラムのメンバーも含め、九州に旅に出ました。鹿児島の天文館にある東横インを拠点にして龍門司焼や沈壽官を訪れ、熊本の小代焼ふもと窯に行き、福岡の秋月にある久野さんプロデュースの店に宿泊し、小石原焼太田哲三窯に行き、と行き先はそれまでと変わらないのですが、一つ違うのは久野さんがおらず、息子さんだったことでした。寂しさを感じつつも、新鮮さもありました。

仲間

ページ作りや、出荷など、moyaisの運営の多くは自分一人でやっていましたが、ずっとブログやFacebookの投稿などを手伝ってくれる女性がいます。鎌倉在住でもやい工藝、民藝が大好きというだけでなく、手仕事を残していくことに役立ちたいという強い思いをもっています。その方が、子供を保育園に預け、もっとmoyaisのほうに時間を割いてくれることになりました。

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ブログ・Facebook担当 平野

また、ページや出荷などを手伝ってくれる仲間も現れました。私ももちろん関わって行くのですが、今後はこうした仲間と共に、moyaisを運営していきます。

最後に

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2013年9月 沖縄・中城にて 故・久野恵一氏(左)と弊社代表・今野(右)

なぜmoyaisをやっているのか?簡単に書けば良いものを長々と書いてしまいました。想いが強いので、つい語りたくなってしまいます。moyaisは受託制作の事業と接点を持たせるためにはじめたものではありませんし、無理につなげるつもりも今のところはありませんが、一つ根底でつながっているものがあると思っています。それは、お客様もサービスへの強い想いや、様々なストーリーを持っていらっしゃるということ。そして私達の仕事はその想いや、ストーリーを形にすることであると思っています。是非、皆様のストーリーをお聞かせください。